「いまを生きる」

病気になったからとがんばって「治そう」とすることは、どこかで間違っています。


心と体のバランスが崩れていることをメッセージとして受け取るだけでいいのです。


そしてそのことをふまえて、どんな状況や境遇にあろうと、自分がよりよい方向に考え行動することが「いまを生きる」最善のことなのです。


この「いまを生きる」ために、私たちは生まれてきたのではありませんか。


では「いまを生きる」ためにはどうしたらよいのでしょうか。


わかりやすくいえば、すべてを楽しんでしまうことです。


対象は何でもいいのです。


とにかくわくわく、いきいき、楽しんで生きることです。


そのなかに病気を楽しむというのがあってもかまいません。


「この病気がどこまで自分を成長させてくれるか」


・・・と考えれば、一見、気を病気へ集中しているようで、実際には人生を楽しむことに集中しているので、病気を抱えても、それが人生の邪魔になることはありません。


人生の邪魔をさせなければ、病気などはあってもなくても同じことです。

心を自然体にする

変な欲をかくのがいちばん気のバランスを崩します。


健康への過剰の配慮も病気への闘争心も、その意味では同じように危険なのです。


一時期私は頭の毛が薄ぐなり、気になってあたふたといろいろな対策を講じました。


しかし少しも効き目がない・・・。


どんどん寂しい状態になっていきました。


あるときふと気がついたのは「自分が気にするほど人は気にしていない」ということでした。


自分は以前のフサフサ時代を知っているから、必死になって「よく見せよう」とするけれども、そう思うと結果は悪くなっていくのです。


他人はまったく気にしていないーと気がついたとき、私の心は自然体になりました。


自然体になったとき、その人間のよい点が出てくるもので、そのときから事態は好転したのです。


いまはまったく気にしていません。


人間は自分のもっているいちばんよい面が出ているときは、幸福で健康で人生が楽しいのです。


ところが何か自分に欠陥を見つけると、それをカバーしようとする。


病気でいえば人生を中断して「病気治し」に専念しようとします。


だがよく考えていただければ、人生に中断などないことがわかる。


どんな人生も真っ盛りで、人間をやめないかぎりは中断は許されない。


頭がはげようとリウマチになろうと、ガンになろうとそれがそのまま人生なのです。

治すのは自分

私も、薬の勉強を一生懸命にしました。


しかし、病気がちっとも治せないことに気がついた時点で、私は薬にも大いなる不信感をもつようになりました。


しかしいまは少し違います。


薬の効き目も気のもち方で違ってくるのです。


この薬は自分の病気を治してくれるエネルギーなのだ、と思って飲めば必ず効きます。


そう思えないのなら思う努力をするべきで、ただいたずらに薬不信に陥るのはマイナス以外の何ものでもありません。


薬は医者と同じ存在といえます。


医者は病気を治すパートナーです。


病気について専門に勉強して知識もある人が、自分の病気を治すことに協力してくれる。


薬も同じように病気を治すパートナーと考えればよいのです。


ですから「この薬が病気を治す」と過剰な思い入れは禁物なのです。


何度も述べているように、薬は病気を治さない。


治すのは自分です。


この自分の内部にもつ力が治すのだという意識が一番大切なのです。

"プラシーボ効果"

「自分に合わない」といって薬を代えてもらった。


「今度の薬は大丈夫だろう」と患者さんは思う。


それは取りも直さず医師への信頼です。


ことさら意識していなくても、そういう信頼が薬にも乗り移る。


薬には昔からプラシーボ効果といって、ニセ薬でも患者が「効く」と思って飲めば一定の効果を上げる、ということがあります。


まして本物の薬ですから「効く」と思って飲めば本当に効くのです。


副作用も同じです。


「副作用は心配ない」と思って飲む人に副作用は出ない。


薬を飲む前から「この薬を飲むと必ず副作用が起きる」と思っている人には、百発百中出るといっても過言ではありません。


どんな薬でも「この薬は効く」「ありがたい」と思って飲めば、その薬の成分は患者さんのよいエネルギーに変わり、体全体の気を高めていくことになる。


病気に関してはすべて、プラス思考がいかに大切かがわかります。


薬についていえば、医師は医学部で勉強しているときも、医者の卵になって修業しているときも、全幅の信頼をおいていました。

薬はどうすれば信用して飲めるか

気にするという点では薬も同じです。


薬は副作用のあることが広く知られるようになって、患者のなかには神経過敏になっている人がいます。


薬を出すと「先生、この薬はどんな副作用があるんですか」と聞く人がいるそうです。


なかには「先生、私、この薬は合わないんです」とはっきりいう人もいます。


そういうとき医師は「そうですか」と素直に引っ込め、「はい、これは大丈夫です」と新しい薬を渡します。


しばらくして患者さんに会うと「先生、この間もらった薬は効いたようです。


体が前よりも楽になりました」というのですが、実は同じ薬を渡しているのだそうです。


ただし医師はその薬に自分の思いをのせているのです。


気の力を借りているのです。


医師が気を飛ばすと不思議なことに、「その薬が体に合わない」といっていた患者さんも薬の効能があらわれる。


こういう例を私は医師の間近でたくさん見てきました。


これには気そのものの力もありますが、私は医師と患者の信頼関係も大きくかかわってくると思うのです。

自分のために気を使い過ぎると・・・

「治ってやるぞ」と意気込んでいる人の病気は治るでしょうか。


一概にそういえないところが大きな問題です。


というのは、そういう人は気が健康に向き過ぎている。


これも決してよいことばかりではありません。


健康にそれだけ気がいくことは「病気になる」ことの裏返しなのです。


早い話が病気という言葉を意識しなくても、病気を怖がっているのと同じなのです。


昨今は健康食品ブームで、いろいろな健康食品が売られていますが、健康食品を用いている人は「病気へ向かっている」といってもよいのです。


実際、健康食品にこだわっている人ほど健康を損なっています。


気の原則のひとつに「自分のために気を使い過ぎると病気になる」というのがありますが、まさにこの状態になっているのです。


健康食品を活用することは悪いことではありません。


だが「病気にならないために」などとあまり思い入れを強くもたないほうがいいでしょう。


健康な人はふだんの食事を滋養だ、栄養だなどとことさら思いません。


ただ単純に「食べたい」「おいしい」で食べています。


健康食品も「趣味だから」とか「癖になった」、そのていどでいいのです。


「高血圧にいい」「ボケ防止になる」などと意識すると、かえってよくありません。

気のバランスを保つ

気のバランスを保つうえで知っていただきたいことは、世の中には決定的によいこと、決定的に悪いこと、どちらも存在しないということです。


これを陰陽でいいますと「陰極まれば陽になり、陽極まれば陰になる」。


陰陽は属性であって、それじたいに善悪のような判断は下せない。


人間のあらゆる営みも同じように考えられるのです。


病気は一般に「よくないこと」とされていますが、病気になるということは、かぎりなくひとつの方向へ向かっていた体が極まって臨界点に達したことです。


それが病気であると同時に、病気の症状はもうひとつの方向、すなわち健康へ向かい出した証拠でもあります。


思い込みが気の流れを低下させ病気にすることがあるように、思い込みひとつで健康になることもできるのです。


たとえばこういう患者さんがいます。


膝が痛いというから、医師が手当てしようとすると、それを断るのです。


「先生、私、忙しいので注射だけしてください」


「今日は薬だけでいいです」


・・・難病の人ほど注射や薬に頼ります。


しかも「治る」と思って頼るのではない。


その場、その場の症状を軽減するためだけに頼る。


病気そのものは「難病だから治らない」と信じ込んでいる。


そういう人間は、その思いどおり一生病気を抱えてしまうことになります。

健康食品はこう使う

気には先天の気、後天の気の二種類があります。


先天の気は親から受け継ぎ、生まれながらにもっている気です。


この気には成長し発育していく生命力が備わっている。


生まれると黙っていても成長するのはこの気に生命力が宿っているからで、先天の気は「生命力」といってもよいでしょう。


後天の気は先天の気を維持するためのもので、具体的には栄養や呼吸によって取り入れられる気のことをいいます。


私たちが健康で生きられるのは、この先天の気と後天の気がひとつになっているからなのです。


自然治癒力はこの二つの気のバランスから生じる生命力の発現した姿といってもよいでしょう。


つまり私たちが健康で生命が満ちあふれているようなときは、ことさら自然治癒力を意識する必要はありません。


自然治癒力が高い低いではなく、それを意識しないですむときがいちばん健康な状態なのです。


健康は自然界の営みと個人の生命活動の営みが一致したときに実現します。


自然界のすべての営みは、陰と陽から成り立ち、それは互いに作用し合いながらバランスを保っていると考えられます。


このバランスの上に個人の健康も成り立っている。


だから私たちは気をうまく使ってバランスをとることがいちばん大切なのです。

病気になるのも捨てたものではない

人間は三日生死の境をさまようと聖者になれる、といいます。


別に聖者にならなくてもいいのですが、病気になったら「自分を考えるチャンスが訪れた」と前向きにとらえることです。


そうすれば病気はたんに痛い、苦しいものではなく、別の価値あるものになる。


そして治りも早いのです。


「先生、父が寝たきりになってしまって、困っているんです」


田舎の小さな病院の医師は人生相談も引き受けなければなりません。


こんな相談をもちかけられることがよくあります。


「おや、そうですか。でも私にはあなたのほうが寝たきりに見えますけど」


「またまた、先生は冗談ばっかり」


・・・医師は別に冗談をいっているわけではないのです。


家族に寝たきりが出れば、たしかに困るでしょう。


しかし面倒を見る者だけが困るわけではない。


寝たきりになったほうだって、どれだけつらい思いをしているか。


自分の親なのに、いかにもやっかいもののようにあつかい、ストレスで心が動けなくなっている。


だから医師は


「心の寝たきりだ」


・・・といっているのです。


重い病気をしたことのない人は、病人には冷たいところがある。


経験がないから仕方がない面もありますが、そういう人でも一度病気をすれば病人のつらさを考える。


苦しんで、つらい思いをして、涙を流して、またひとつ成長していく。


病気になるのも病人をみるのも捨てたものではないのです。


効果的な広告の種類

多くの広告主たちは、じつに大きなミスをおかしています。


見込み客をからかうことはいちばんのミスでしょう。


いちばん普通の方法は、製品やサービスの見込み客たちをマンガでからかうことです。


私たちは、よい意味でジョークをとばすことを教えこまれていますが、実のところ誰だって笑われたくはないのです。


しかし、その人が"マゾ的神経症状態"にあれば話は別です。


見込み客をあざ笑う広告がよく出ます。


それは巧妙にできているためかなりの関心を集めます。


またそれは、広告主の抑圧された憎悪を吐き出させる作用もするかもしれません。


わたしたちはみな、われわれを支配する者に敵意を覚えるのは当然ですね。


ですから広告主の製品やサービスの使用をひとりで決定する気まぐれ者がいないのと同様に、ひとりの実務家を自由にできるような人もいないのです。


広告主を気まぐれにするような広告が、めったに出ないことに注意していただきたいのです。


このことは、ひとつにはつぎの理由によるものです。


無謀な広告代理店、あるいはまた非常に堅実な代理店は、広告判定者や財布のヒモを握る人たちをからかう広告を提供したがるからです。


しかし、この種の広告は、実はお見合いパーティー 大阪にも効果的なのです。

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